拙エッセー「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」の加筆がまだ終わらない。
前掲エッセーを執筆した時点では未読だった前世療法の代表的な提唱者ブライアン・L・ワイスの著作を読み、わたしなりの考察も済ませた。それを前掲記事に挿入すればいいはずだったが、まだ何か足りないものがある、このままではこのエッセーを脱稿したことにはならないという思いが強まっていた。
それが何だったかが、ふとパラマンサ・ヨガナンダ『ヨガ行者の一生』(関書院新社、初版1960、1979改訂第12版)に書かれている前世に関する記述を思い出したことから、はっきりした。
わたしは前世療法を否定していながら、自分にはほのかな前世の記憶があると臆面もなく書いてきた。こうした記憶はわたしにとっては微塵も不自然なところがないばかりか、ほのかでありながらも確固としたものだからだ。「マダムNの神秘主義的エッセー」より引用する。
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https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/08/24/112735
わたしの一番古い記憶はこの世に降りてくる前のあの世での光の記憶です。それは、えもいわれぬ柔らかな精妙な光でした。
幼いころ、この世の太陽の光のきめがあまりに粗くて皮膚に痛く、暗いこの世の光に気持ちまで暗くなって、絶望的な子供時代でした。誰に教わるでもなく、瞑想をする習慣もありました。前世は修行僧で老人になってから死んだ、という漠然とした記憶もありました。
子供のころの空想と思うには、57歳まで生きてきたわたしの人生は神秘主義的にすぎますし、自分を霊媒と考えるには主体的、自覚的にすぎます。脳は生まれ変わるたびに新しくなるので、霊的な記憶だろうと推測するしかありません。
一方では、塀とか木の上のような高いところの好きな普通の子供でもありました。そうした完全な二重生活をまわりの人達も皆送っていると中学生になるころまで、思い込んでいました。
前世の記憶を基礎として今世での新たな人生が展開している――との自覚が子供のころから、もうすぐ63歳になろうとしている今日に至るまで、通奏低音のように自分の中に存在しているから、書かずにはいられなかったことだといえる。
こうした記憶は少なくとも、他人に施された前世療法によって抽出ないしは付与されたものではない。前世の淡い記憶の中で、わたしの幼年時代は始まったのである。
それは、思い出す必要があったから思い出したまでのことだとわたしは考えており、思い出す必要もないのに、治療と銘打って催眠という手段を用いてまで前世に関わろうとする必要があるのか、甚だ疑問である。
ワイス博士の著作を読む限りでは、前世療法を用いなければならないだけの説得力に乏しいように思う。
わたしは『ヨガ行者の一生』を読んだ若かった頃に、ヨガナンダが前世について述べるくだりを何の違和感もなく読んだばかりか、その文章はわたしの前世の記憶に対する信頼感を高めてくれる気がした。ヨガナンダは述べている。
私のごく幼い頃の思い出は自分の前世のさまざまな場面を網羅していた。ヨガの行者として、ヒマラヤの雪の中にいた遠い昔のことを、わたしは子供心にはっきり想い出すことが出来た。かかる過去への瞥見は、ある超次元的連鎖によって未来に対する予見をも私にあたえてくれた。(ヨガナンダ,1979,p.1)ヨガナンダは過去の記憶――前世の記憶――について、次のような見解を述べる。
私の遠い過去の記憶は、別に独特なものではない。多くのヨガ行者たちは、生から死へ、また死から生への劇的変化によって、途切れることのない自己意識を保持しているといわれている。もし人間が、単に肉体だけの存在であるとするならば、その消滅は自己意識に終止符を打つわけであろう。だが、数千年来の予言者たちの言葉が真実であるとするならば、人間は本質的には霊的性格のものである。その人間個性の永続的核心が、此の世における暫くの期間、感覚的知覚と結びついたにすぎないのである。幼児の記憶をはっきり持っているということは、あながち稀なことではない。多くの国々を旅する間、私は幾多の誠実な男女の口から語られる幼い頃の思い出に、しばしば耳を傾けたものである。(ヨガナンダ,1979,pp.1-2)しかし、ヨガナンダの前世の記憶は、前世療法を受けた人々に多く共通するところの、事細かに一部始終が明かされるといった冗長な、物語のような記憶とは異なる。ヨガナンダの前世の記憶は断片的な、前後のつながりを欠いて表れる閃きのようなものが主たるもので、恩師スリ・ユクテスワァに出逢ったときの前世の記憶の蘇りもそうであった。
道のはずれに黄褐色の僧衣をまとった、キリストのような一人の男がジッと立っている。その顔は昔から見慣れた顔のようでもあり、みた途端に親しさを覚えさせるような顔でもあった。私は一瞬、穴のあくほど彼を見つめた。すると、或る疑いが胸に沸いてきた。
「お前は此の托鉢僧を誰かと間違えているな。さあ、白昼夢なんか見ていないで、さっさと歩くんだ」私はこう考えた。(ヨガナンダ,1979,p.77)
この後、ヨガナンダに貴い師の記憶が蘇った瞬間のことは、次のように感動的に描かれている。
沈黙の聖歌が雄弁に師の心から弟子の心に流れた。私は鋭い洞察力を以て、この聖者こそ神を知る人であり、私を神に導いてくれる永遠の師であることを直観した。この夢のような現実は、私の前世の記憶と渾然一体となっていた。何たる劇的な瞬間! 過去、現在、未来が一点にめぐり合った瞬間! 太陽がこの聖者の足許にひざまずく私を見たのは、これが始めてであったろうか。(ヨガナンダ,1979,pp.78)自律精神がヨガナンダを特徴づけている。霊媒とは無縁の品格がその著作から伝わってくる。神秘主義で催眠術は黒魔術に属する。危険な催眠術を施されて霊媒性質を強められ、前世療法という科学的名目を掲げた降霊術の霊媒になってしまったら、元も子もない。
何も急いで前世を思い出す必要はない。必要なときにその記憶は自ずから蘇るはずである。
マダムN 2021年2月13日 (土) 22:45
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