2021年4月3日土曜日

ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する ③著名なヨガ行者パラマンサ・ヨガナンダと前世療法における「前世の記憶」の様態の決定的違い

 拙エッセー「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」の加筆がまだ終わらない。

前掲エッセーを執筆した時点では未読だった前世療法の代表的な提唱者ブライアン・L・ワイスの著作を読み、わたしなりの考察も済ませた。それを前掲記事に挿入すればいいはずだったが、まだ何か足りないものがある、このままではこのエッセーを脱稿したことにはならないという思いが強まっていた。

それが何だったかが、ふとパラマンサ・ヨガナンダ『ヨガ行者の一生』(関書院新社、初版1960、1979改訂第12版)に書かれている前世に関する記述を思い出したことから、はっきりした。

わたしは前世療法を否定していながら、自分にはほのかな前世の記憶があると臆面もなく書いてきた。こうした記憶はわたしにとっては微塵も不自然なところがないばかりか、ほのかでありながらも確固としたものだからだ。「マダムNの神秘主義的エッセー」より引用する。

0「当ブログについて」
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/08/24/112735

わたしの一番古い記憶はこの世に降りてくる前のあの世での光の記憶です。

それは、えもいわれぬ柔らかな精妙な光でした。
幼いころ、この世の太陽の光のきめがあまりに粗くて皮膚に痛く、暗いこの世の光に気持ちまで暗くなって、絶望的な子供時代でした。誰に教わるでもなく、瞑想をする習慣もありました。前世は修行僧で老人になってから死んだ、という漠然とした記憶もありました。
子供のころの空想と思うには、57歳まで生きてきたわたしの人生は神秘主義的にすぎますし、自分を霊媒と考えるには主体的、自覚的にすぎます。脳は生まれ変わるたびに新しくなるので、霊的な記憶だろうと推測するしかありません。
一方では、塀とか木の上のような高いところの好きな普通の子供でもありました。そうした完全な二重生活をまわりの人達も皆送っていると中学生になるころまで、思い込んでいました。

前世の記憶を基礎として今世での新たな人生が展開している――との自覚が子供のころから、もうすぐ63歳になろうとしている今日に至るまで、通奏低音のように自分の中に存在しているから、書かずにはいられなかったことだといえる。

こうした記憶は少なくとも、他人に施された前世療法によって抽出ないしは付与されたものではない。前世の淡い記憶の中で、わたしの幼年時代は始まったのである。

それは、思い出す必要があったから思い出したまでのことだとわたしは考えており、思い出す必要もないのに、治療と銘打って催眠という手段を用いてまで前世に関わろうとする必要があるのか、甚だ疑問である。

ワイス博士の著作を読む限りでは、前世療法を用いなければならないだけの説得力に乏しいように思う。

わたしは『ヨガ行者の一生』を読んだ若かった頃に、ヨガナンダが前世について述べるくだりを何の違和感もなく読んだばかりか、その文章はわたしの前世の記憶に対する信頼感を高めてくれる気がした。ヨガナンダは述べている。

私のごく幼い頃の思い出は自分の前世のさまざまな場面を網羅していた。ヨガの行者として、ヒマラヤの雪の中にいた遠い昔のことを、わたしは子供心にはっきり想い出すことが出来た。かかる過去への瞥見は、ある超次元的連鎖によって未来に対する予見をも私にあたえてくれた。(ヨガナンダ,1979,p.1)
ヨガナンダは過去の記憶――前世の記憶――について、次のような見解を述べる。
私の遠い過去の記憶は、別に独特なものではない。多くのヨガ行者たちは、生から死へ、また死から生への劇的変化によって、途切れることのない自己意識を保持しているといわれている。もし人間が、単に肉体だけの存在であるとするならば、その消滅は自己意識に終止符を打つわけであろう。だが、数千年来の予言者たちの言葉が真実であるとするならば、人間は本質的には霊的性格のものである。その人間個性の永続的核心が、此の世における暫くの期間、感覚的知覚と結びついたにすぎないのである。幼児の記憶をはっきり持っているということは、あながち稀なことではない。多くの国々を旅する間、私は幾多の誠実な男女の口から語られる幼い頃の思い出に、しばしば耳を傾けたものである。(ヨガナンダ,1979,pp.1-2)
しかし、ヨガナンダの前世の記憶は、前世療法を受けた人々に多く共通するところの、事細かに一部始終が明かされるといった冗長な、物語のような記憶とは異なる。ヨガナンダの前世の記憶は断片的な、前後のつながりを欠いて表れる閃きのようなものが主たるもので、恩師スリ・ユクテスワァに出逢ったときの前世の記憶の蘇りもそうであった。

道のはずれに黄褐色の僧衣をまとった、キリストのような一人の男がジッと立っている。その顔は昔から見慣れた顔のようでもあり、みた途端に親しさを覚えさせるような顔でもあった。私は一瞬、穴のあくほど彼を見つめた。すると、或る疑いが胸に沸いてきた。
「お前は此の托鉢僧を誰かと間違えているな。さあ、白昼夢なんか見ていないで、さっさと歩くんだ」私はこう考えた。(ヨガナンダ,1979,p.77)

この後、ヨガナンダに貴い師の記憶が蘇った瞬間のことは、次のように感動的に描かれている。

沈黙の聖歌が雄弁に師の心から弟子の心に流れた。私は鋭い洞察力を以て、この聖者こそ神を知る人であり、私を神に導いてくれる永遠の師であることを直観した。この夢のような現実は、私の前世の記憶と渾然一体となっていた。何たる劇的な瞬間! 過去、現在、未来が一点にめぐり合った瞬間! 太陽がこの聖者の足許にひざまずく私を見たのは、これが始めてであったろうか。(ヨガナンダ,1979,pp.78)
自律精神がヨガナンダを特徴づけている。霊媒とは無縁の品格がその著作から伝わってくる。神秘主義で催眠術は黒魔術に属する。危険な催眠術を施されて霊媒性質を強められ、前世療法という科学的名目を掲げた降霊術の霊媒になってしまったら、元も子もない。

何も急いで前世を思い出す必要はない。必要なときにその記憶は自ずから蘇るはずである。

マダムN 2021年2月13日 (土) 22:45

ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する ②

 拙エッセー「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」に加筆するために、ブライアン・L・ワイス(山川紘矢・亜希子訳)『前世療法――米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』(PHP研究所、1991)を図書館から借りて読んでいた。

ところがこの本が汚されていて、勇気を出しても開くことができない。仕方なく、文庫版を購入。ブライアン・L・ワイス(山川紘矢・亜希子訳)『前世療法――米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』(PHP文庫 - PHP研究所、1996)。文庫版を読了した感想は、①で書いたことと変わらない。

被験者キャサリンは検査技師。彼女の父親は船乗りで家を留守にしがちであり、長年アルコール中毒患者だった。母親は鬱状態になり、精神科医にかかったりしたが、大事に至らずに済んだ。

 父親のアルコールの消費量が増えるにしたがって、母親とのいさかいが激しくなり、母親は次第に暗く、黙りがちになった。しかし、キャサリンは、これも一つの家庭のあり方だとして、受け入れていた。
 家の外では、ずっとうまくいっていた。高校に入学すると、彼女はデイトをし、友達にも溶け込み、ほとんどの友達とはその後もずっとつき合っていた。しかし、彼女はなかなか人を信頼できない自分に気かついた。特に自分の友達の小さなグループ以外の人は、どうも苦手だった。(ワイス、山川紘矢・亜希子訳、1996,P.13)
こうしたことを、キャサリンはワイス博士のカウンセリングによって、自力で思い出している。

高校卒業後、2年間専門学校に通い、検査技師の職を得て自活するようになると、「自分の家のごたごたから逃げ出せたのがうれしかった」(ワイス、山川紘矢・亜希子訳、1996,P.14)

ところが彼女が病院で働いていたときに知り合った小児科医スチュアートと知り合ってから、恐怖症や不安の発作が頻繁に起こるようになる。

その原因を探るために、ワイス博士はキャサリンに前世療法を行うに至る。前世療法を行わなければならないような事例だろうかと素人のわたしは疑問に思う。

なぜなら、キャサリンの精神的な異変はスチュアートとの出会いのときからで、彼女はそのスチュアートとは不倫関係に陥っていたからである。彼女の混乱の原因がこのこと以外にあるだろうか。

相思相愛で、家族にも友人達にも社会的にも祝福された、美しくあるべきはずの恋愛が不倫であったため、彼女には良心の呵責に耐えられないとか自己嫌悪といった精神的葛藤が起きただろうし、スチュアートに対する不信感も当然起きただろう。

ただ、彼女には父親から幼児期に性的悪戯を受けたトラウマがあった。

キャサリンの神経症の原因として考えられるのは、一にキャサリンが自ら惹き起こした不倫、二に父親という他者から惹き起こされた性的トラウマなのだが、ワイス博士の考えは、この二つの区別を慎重につけることをしないまま、表面上現れた障害をとにかく除去できればいいというものに思える。

そもそも父親からの性的悪戯という忌まわしい出来事は、「癒える」性質のものなのだろうか。これは彼女個人の問題というより、人類の問題、社会の問題ともいえるものだ。

しかし、この問題は表面上は癒えていた。それが問題化したのは、やはり、スチュアートとの不倫が始まってからのことだった。

それで病気になったのであれば、不倫は病気か? 

不倫問題は、妻子の視点では、キャサリンはスチュアートと同罪の加害者である。

前世に遡って、それがカルマの結果であることがわかったというのなら、別の展開が期待できる気がするが、このキャサリンのケースを見る限りでは、現世で彼女に被害をもたらした相手は前世でもそのような人物なのである。

同じ事の繰り返しで、カルマは何の働きもしていないかのようだ。

堂々巡りのような前世から現世の出来事がわかったからといって、なぜ、神経症が癒えたのか、わたしにはわからない。わたしであれば、カルマは何の働きもしてくれないことがわかり、むしろ絶望感が深まるだろう。

そもそも、催眠下での彼女の語りが、本当に前世の体験談なのかどうかは不明のままである。

キャサリンが前世の体験らしきものを語り、やがてマスターらしき人物が現れると、彼女の口を通して教訓を垂れ、それをワイス博士が謹聴するその光景は、日本では馴染み深いイタコさんと依頼者そのものだ。

そして、神智学的観点から読めば、どう読んでもキャサリンは前世療法という催眠療法を受けて霊媒になってしまっている。

複数現れるマスター達は、カーマ・ローカ(ハデス、アメンティ、黄泉などと呼ばれる、主観的な半物質的世界)の幽霊だろう。

救いは、彼女自身が、マスターなどの媒体となることを嫌がって受診を終わりにしたがり、ワイス博士が――残念に思いながらも――それに同意したことである。彼女自身の健全な警戒心が働いたことで、完全に霊媒になってしまうことから免れられたのかもしれない。

前世ごっこ――霊媒ごっこ――をするより、もっと安全な、一般的な工夫で、彼女程度の症状であれば、緩和されたのではないかという気がしてしまう。

前世療法、そして巷で占いとして行われているオーラ診断といったものは、眠れる予言者といわれたエドガー・ケーシーを参考にしているように思われる。

わたしはケーシーについて、かなり疑問に思っている。ケーシーのリーディングは格調高く聴こえるが、所詮は霊媒の戯言ではなかったか。

それというのも、オーラがケーシーのリーディングでいわれるようなものにすぎないとはわたしにはとても思えないからである(拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」における以下の2本の記事を参照されたい)。

 29 わたしが観察したオーラと想念形体、そしてプライバシーに関わると考える他人のオーラ
 https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/29/200625

 65 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/10/26/075003


26日にオーラに関する追記:

関連記事として挙げた「65 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』」中、オーラの考察としてまとまった部分があるので、以下に引用しておく。

オーラが見え始めたのは、大学時代だった。

わたしがいうオーラとは、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学ニッポン・ロッジ、竜王文庫、1995・改版)の「用語解説」にある、「人間、動物、その他の体から発散される精妙で目に見えないエッセンスまたは流体」(*1 ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説「オーラ(Aura,希/羅)」p.22)を意味する。

人間が不死の部分と死すべき部分からできているということを知らなければ、オーラが何であるのかを理解することはできない。このことの詳細――人間が七つの構成要素からなるということを、わたしはH・P・ブラヴァツキーの神智学の論文を通して教わった。

すなわち、人間が不死の三つ組みと死すべき四つ組からなることを。七つの構成要素のそれぞれについて学ぶことはわたしには歓びだったが、一般の方々はどうであろうか。

わたしにとって、オーラの美しさに匹敵するものはこの世になく、オーラの美しさをいくらかでも連想させるものといえばオーロラくらいなので、ときどきしかオーラが見えないのはつまらないことに思っていた。

最近までずっとそう思っていたので、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えた 20 年も前のことを毎日のように回想し、あのように美しい光にいつも浴していられればどんなに幸福なことだろうと思っていた。

しかし最近になって、オーラはたまに見えるくらいが丁度よいと思えるようになった。

尤も、強く意識し目を懲らせば、オーラというものは低い層のものなら容易く見ることができる。

物体の輪郭――例えば開いた手の輪郭に目を懲らしていると、指の輪郭を強調する、ぼんやりとした弱い光が、次いで夕日の残照のように射して見える色彩やきらめきなどが見えてくる。さらに目を懲らしていると、光はいよいよ豊富に見え出す。

だが、そんな風に意図的にオーラを見ようとする試みは疲労を誘うし、その水準のオーラを見ても、つまらないのである。自然に任せているのに、オーラが断片的に見えることはちょくちょくあるが、そのオーラがありありと見えることはわたしの場合はまれなのだ。

ありありと見えるオーラーーオーリックエッグと呼ばれるオーラの卵そのものは、観察される人の高級我が自ら開示してくれる場合にのみ、その許された範囲内において、観察可能なのではないかとわたしは考えている。

創作中は自身のハートから放射される白い光に自ら心地よく浴していることが普通の状態で、創作が生き甲斐となっているのもそれが理由なのかもしれない。

生者のオーラに関していえば、それが見えるとき、肉体から放射される光のように見えていて、肉体はその光が作り出す影のように見える。観察する側の感受性が高まれば高まるほど、その影は意識されなくなっていき、遂には光だけが意識されるようになる。

死者についていえば、死者を生きていたときのような肉体としての姿で見たことはまだない。死者が訪れ、近くに死者がいたときに、輪郭をなぞる点描のようなものとして見えたことがあった以外は、ほとんど何も見えなかった。いわゆる幽霊が見えたことは一度もないのだ。

それなのに、存在は感じられた。そして、たまたま死者の訪問時に死者のオーラが見えたこともあったが、そのとき、おそらくわたしは生者のオーラを見るときと同じように死者のオーラを見ていたのだと思われ、死者の肉体が存在しないせいか、光だけが見えたのであった。

たぶん、わたしの感受性がこの方向へ日常的に高まれば、物体は圧倒的な光の中に縮んだ、おぼろな影のようにしか見えなくなるだろう。オーラは人間にも動物にも植物にも物にすらあるので、留まっている光や行き交っている光のみ意識するようになるに違いない。世界は光の遊技場のように映ずるだろう。

そのとき、わたしはこの世にいながら、もうあの世の視点でしかこの世を見ることができなくなっているわけで、それは地上的には盲目に等しく、この世で生きて行くには不便極まりないに違いない。

以下の断章は、神智学徒だった高齢の女性のオーラを描写したものだ。

……(引用ここから)……頭を、いくらか暗い趣のあるブルーが円形に包み込んでいた。その色合いはわたしには意外で、先生の苦悩ないしは欠点を連想させた。全身から、美麗な白色の光が力強く楕円形に放射されていて、その白い楕円の周りをなぞるように、金色のリボンが、まるで舞踏のステップを踏むように軽やかにとり巻いていた。金色の優美さ、シックさ、朗らかさ。あのような美しい白色も、生き生きとした金色も、肉眼で見える世界には決してない。……(引用ここまで)……

そのときわたしはあの世の視点で他者のオーラを見ていたわけで、そのときのオーラは物質よりも遙かに存在感が勝っており、こういういい方は奇妙だが、光の方が物質よりも物質的に思えるほど重厚感があった。反面、女性の肉体は存在感のない影だった。

圧倒的な白色を、まるで保護するように取り巻いていた金色のリボンは何かの役割を帯びた組織なのだろうが、その組織の性質が作り出す形状は装飾的といってもよいぐらいだった。

 ……(後略)……



マダムN 2021年1月25日 (月) 19:37

ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する ①

 拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」における「注目記事」のランキング上位によくエッセー 77「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」が来るので、いずれ動画化したいと思っていた。

加筆の必要があったため、とりあえず、主幹ブログ「マダムNの覚書」にノートした。まとめる作業をしやすいように、当ブログにアップしておく。

前掲の拙エッセー「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」に、米国の精神科医ブライアン・L・ワイスが前世療法の提唱者と書き、ウィキペディアを始めとするネットで情報蒐集したことからこの療法の危険性をほぼ確信していたのだが、肝心のワイス博士の著作を読んでいなかったので、代表的著作を数冊読んでエッセーを改稿してからでないと……と思い、とりあえず図書館検索だけしておくつもりで、検索した。

残念ながらワイス博士の著作は、ブライアン・L・ワイス(山川紘矢・亜希子訳)『前世療法――米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』(PHP研究所、1991)一冊しかヒットしなかった。幸いなことに、1988年にサイモン・アンド・シャスター社から上梓されたこの著作は全米的なベストセラーとなったもので、代表的著作といってよい作品のようだ。

Amazonの商品説明から引用させていただく。

    商品の説明
    内容(「BOOK」データベースより)

    「私は18歳です…長いドレスを着ています…時代は紀元前1863年です…」催眠治療中の女性患者が、前世の記憶を鮮やかに語りはじめた。彼女を通して伝えられた精霊達のメッセージによって、精神科医は現代科学では説明できない輪廻転生の世界を徐々に理解していく。―神秘的とも言える治癒の記録を綴ったこの手記は、人間観・人生観の革命であり、生きる真の意味を教えてくれる。
当記事を書いている現時点で、135個の評価、星5つ中の4.4である。レビューした人々の中には同業者もおられるようだ。神秘主義=心霊主義と捉えている人が多い。著作の内容からすると、ワイス博士もどうやらそうだ。

『前世療法――米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』の「著者について」(p.266)には、ワイス博士の略歴が紹介されている。

   1966年コロンビア大学を優等で卒業後、1970年エール大学医学部で医学博士号をとる。……(略)……現在、フロリダ州のマイアミビーチにあるシナイ山医療センターの精神科部長兼マイアミ大学医学部精神科の教授をつとめている。
   ワイス教授の専門分野は、うつ病と不安症、不眠症、薬物濫用による精神障害、アルツハイマー症、脳化学等の研究及び治療である。
まだ半分読んだところなので、全部読めば違った感想になるかもしれない。が、おそらく自身の結論が覆ることはないだろう。わたしがタイトルに書いたことは正しかったと現時点では確信している。

ワイス博士の著作を信奉して治療するピプノセラピストとその療法を受ける患者がどれくらいの数に上るのだろうと思い、すっかり怖くなってしまった。

ワイス博士の略歴を見ると、優秀な頭脳の持ち主であるようだ。しかしながら、神秘主義に関しては素人であり、主に心霊主義の著作を参考にしながら、時々神秘主義の著作のあちこちから恣意的に拾ってきて前世療法の理論構築に使っている。つまり、神秘主義的観点から見れば、子供の火遊びに等しいことをワイス博士は行っている。

そもそも、学者なのに、なぜワイス博士は、引用したり参考にしたりした箇所の情報をきちんと報告しないのだろう? 大衆向きに執筆したからだろうか? それならば、学者としての自身の身分を公言する必要もなかったのではないか。

わたしが読んで戦慄した箇所は、前世療法の被験者キャサリンのゆっくりとしたささやくような声が、突然、大きなしゃがれた確信に満ちた声になった箇所である(p.48)。

ワイス博士は、キャサリンがその声の持ち主を「マスター達、すなわち、現在は肉体に宿っていない非常に進化した精霊達」(p.同上)であると突きとめたと記す。

その少し前に起きた出来事として、キャサリンは全レース当たり馬券を買った(儲けのために賭け事をしたのではなく、父親に自分に起こっていることは本当だと証明するためだった)。

いずれにしても、ワイス博士は前世療法を施すことで、キャサリンを絵に描いたような霊媒にしてしまった。そのような霊媒に「マスター達」が出現するはずもない。出現したのは、マスターを騙るカーマ・ローカの幽霊に違いない。

キャサリンの悩みは消えたのかもしれない。しかし、その悩みと一緒に彼女の繊細な感受性や明晰な知性もどの程度かは失われたのではないだろうか。いや、霊媒性質を強められたことで、いずれ深刻な事態が彼女を襲わないとは限らない。

環境や人間関係に不協和音を生じたために神経症や強迫観念が起きたと思われるキャサリンは、前世療法を受けたために、小難逃れて大難に陥ったと思えてならない。

次の箇所を読んで驚いた。わたしが自然に行うようになり、また三浦関造先生の著作で確認したヨガの技法に似たことが書かれていたからだ(「マダムNの神秘主義的エッセー」所収、エッセー95「H・P・ブラヴァツキーの病気と貧乏、また瞑想についての貴重な警告」)。これは、誰の何という著作を参考にしたものなのだろうか?

続いて、頭のてっぺんに、白くてまばゆい光をイメージするようにと指示した。それから、私がその光をゆっくりと体全体に拡げさせてゆくと、彼女の体全体、すべての筋肉、すべての神経、すべての器官が完全にリラックスし、彼女はますます深い安らぎと平和へと導かれていった。(ワイス,山川紘矢・亜希子訳,1991,p.22)
これは自分でできるはずなので、こうした技法を教えるにとどめ、子供の頃の父親によるセクハラと現在の恋愛問題がキャサリンを窮地に陥れていることを考えれば、改善できる余地は前世療法以外にありそうな気がする。

何より、ワイス博士には指南役にはふさわしくないところがある。催眠術自体が神秘主義では黒魔術であることに加え、ワイス博士は自分の好奇心を優先させて、施術を進めるときがあるからだ。

先週のセッションの興奮が続いていて、私は彼女をまた、中間生へ行かせたくてたまらなかった。すでに、彼女が召使いだった過去生のことに、九十分も費やしていた。私はヘッドカバーのかけ方、バターの作り方、樽のいぶし方などを微に入り細に入り聞かされていた。私はもっと霊的な話を聞きたかった。待ち切れなくて、私は、彼女を死の場面まで進ませた。(ワイス,山川紘矢・亜希子訳,1991,p.53)
これが子供同士の火遊びでなくて、何だろう?

わたしは、エッセー77「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」で次のように書いた。

    ある一連の動画では、はじめはごく普通に見えた女性がセラピストの退行催眠によって次第に異常体質を強めていき(霊性を弱められ)、霊媒になっていく過程をつぶさに確認できた。
    退行催眠中に「あの世にいるマスター」が側に出現するようになり、彼女を通じて前世の細かな様子を語り、忠告などを行う。
この動画で視聴した日本での前世療法は書籍化もされているようで、それも借りた。それにしても、前世療法の現場で決まって(?)出現する「マスター」と呼ばれる存在が気持ち悪すぎる。

マダムN 2020年11月19日 (木) 19:27