2021年4月3日土曜日

ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する ②

 拙エッセー「前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない」に加筆するために、ブライアン・L・ワイス(山川紘矢・亜希子訳)『前世療法――米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』(PHP研究所、1991)を図書館から借りて読んでいた。

ところがこの本が汚されていて、勇気を出しても開くことができない。仕方なく、文庫版を購入。ブライアン・L・ワイス(山川紘矢・亜希子訳)『前世療法――米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』(PHP文庫 - PHP研究所、1996)。文庫版を読了した感想は、①で書いたことと変わらない。

被験者キャサリンは検査技師。彼女の父親は船乗りで家を留守にしがちであり、長年アルコール中毒患者だった。母親は鬱状態になり、精神科医にかかったりしたが、大事に至らずに済んだ。

 父親のアルコールの消費量が増えるにしたがって、母親とのいさかいが激しくなり、母親は次第に暗く、黙りがちになった。しかし、キャサリンは、これも一つの家庭のあり方だとして、受け入れていた。
 家の外では、ずっとうまくいっていた。高校に入学すると、彼女はデイトをし、友達にも溶け込み、ほとんどの友達とはその後もずっとつき合っていた。しかし、彼女はなかなか人を信頼できない自分に気かついた。特に自分の友達の小さなグループ以外の人は、どうも苦手だった。(ワイス、山川紘矢・亜希子訳、1996,P.13)
こうしたことを、キャサリンはワイス博士のカウンセリングによって、自力で思い出している。

高校卒業後、2年間専門学校に通い、検査技師の職を得て自活するようになると、「自分の家のごたごたから逃げ出せたのがうれしかった」(ワイス、山川紘矢・亜希子訳、1996,P.14)

ところが彼女が病院で働いていたときに知り合った小児科医スチュアートと知り合ってから、恐怖症や不安の発作が頻繁に起こるようになる。

その原因を探るために、ワイス博士はキャサリンに前世療法を行うに至る。前世療法を行わなければならないような事例だろうかと素人のわたしは疑問に思う。

なぜなら、キャサリンの精神的な異変はスチュアートとの出会いのときからで、彼女はそのスチュアートとは不倫関係に陥っていたからである。彼女の混乱の原因がこのこと以外にあるだろうか。

相思相愛で、家族にも友人達にも社会的にも祝福された、美しくあるべきはずの恋愛が不倫であったため、彼女には良心の呵責に耐えられないとか自己嫌悪といった精神的葛藤が起きただろうし、スチュアートに対する不信感も当然起きただろう。

ただ、彼女には父親から幼児期に性的悪戯を受けたトラウマがあった。

キャサリンの神経症の原因として考えられるのは、一にキャサリンが自ら惹き起こした不倫、二に父親という他者から惹き起こされた性的トラウマなのだが、ワイス博士の考えは、この二つの区別を慎重につけることをしないまま、表面上現れた障害をとにかく除去できればいいというものに思える。

そもそも父親からの性的悪戯という忌まわしい出来事は、「癒える」性質のものなのだろうか。これは彼女個人の問題というより、人類の問題、社会の問題ともいえるものだ。

しかし、この問題は表面上は癒えていた。それが問題化したのは、やはり、スチュアートとの不倫が始まってからのことだった。

それで病気になったのであれば、不倫は病気か? 

不倫問題は、妻子の視点では、キャサリンはスチュアートと同罪の加害者である。

前世に遡って、それがカルマの結果であることがわかったというのなら、別の展開が期待できる気がするが、このキャサリンのケースを見る限りでは、現世で彼女に被害をもたらした相手は前世でもそのような人物なのである。

同じ事の繰り返しで、カルマは何の働きもしていないかのようだ。

堂々巡りのような前世から現世の出来事がわかったからといって、なぜ、神経症が癒えたのか、わたしにはわからない。わたしであれば、カルマは何の働きもしてくれないことがわかり、むしろ絶望感が深まるだろう。

そもそも、催眠下での彼女の語りが、本当に前世の体験談なのかどうかは不明のままである。

キャサリンが前世の体験らしきものを語り、やがてマスターらしき人物が現れると、彼女の口を通して教訓を垂れ、それをワイス博士が謹聴するその光景は、日本では馴染み深いイタコさんと依頼者そのものだ。

そして、神智学的観点から読めば、どう読んでもキャサリンは前世療法という催眠療法を受けて霊媒になってしまっている。

複数現れるマスター達は、カーマ・ローカ(ハデス、アメンティ、黄泉などと呼ばれる、主観的な半物質的世界)の幽霊だろう。

救いは、彼女自身が、マスターなどの媒体となることを嫌がって受診を終わりにしたがり、ワイス博士が――残念に思いながらも――それに同意したことである。彼女自身の健全な警戒心が働いたことで、完全に霊媒になってしまうことから免れられたのかもしれない。

前世ごっこ――霊媒ごっこ――をするより、もっと安全な、一般的な工夫で、彼女程度の症状であれば、緩和されたのではないかという気がしてしまう。

前世療法、そして巷で占いとして行われているオーラ診断といったものは、眠れる予言者といわれたエドガー・ケーシーを参考にしているように思われる。

わたしはケーシーについて、かなり疑問に思っている。ケーシーのリーディングは格調高く聴こえるが、所詮は霊媒の戯言ではなかったか。

それというのも、オーラがケーシーのリーディングでいわれるようなものにすぎないとはわたしにはとても思えないからである(拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」における以下の2本の記事を参照されたい)。

 29 わたしが観察したオーラと想念形体、そしてプライバシーに関わると考える他人のオーラ
 https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/29/200625

 65 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/10/26/075003


26日にオーラに関する追記:

関連記事として挙げた「65 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』」中、オーラの考察としてまとまった部分があるので、以下に引用しておく。

オーラが見え始めたのは、大学時代だった。

わたしがいうオーラとは、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学ニッポン・ロッジ、竜王文庫、1995・改版)の「用語解説」にある、「人間、動物、その他の体から発散される精妙で目に見えないエッセンスまたは流体」(*1 ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説「オーラ(Aura,希/羅)」p.22)を意味する。

人間が不死の部分と死すべき部分からできているということを知らなければ、オーラが何であるのかを理解することはできない。このことの詳細――人間が七つの構成要素からなるということを、わたしはH・P・ブラヴァツキーの神智学の論文を通して教わった。

すなわち、人間が不死の三つ組みと死すべき四つ組からなることを。七つの構成要素のそれぞれについて学ぶことはわたしには歓びだったが、一般の方々はどうであろうか。

わたしにとって、オーラの美しさに匹敵するものはこの世になく、オーラの美しさをいくらかでも連想させるものといえばオーロラくらいなので、ときどきしかオーラが見えないのはつまらないことに思っていた。

最近までずっとそう思っていたので、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えた 20 年も前のことを毎日のように回想し、あのように美しい光にいつも浴していられればどんなに幸福なことだろうと思っていた。

しかし最近になって、オーラはたまに見えるくらいが丁度よいと思えるようになった。

尤も、強く意識し目を懲らせば、オーラというものは低い層のものなら容易く見ることができる。

物体の輪郭――例えば開いた手の輪郭に目を懲らしていると、指の輪郭を強調する、ぼんやりとした弱い光が、次いで夕日の残照のように射して見える色彩やきらめきなどが見えてくる。さらに目を懲らしていると、光はいよいよ豊富に見え出す。

だが、そんな風に意図的にオーラを見ようとする試みは疲労を誘うし、その水準のオーラを見ても、つまらないのである。自然に任せているのに、オーラが断片的に見えることはちょくちょくあるが、そのオーラがありありと見えることはわたしの場合はまれなのだ。

ありありと見えるオーラーーオーリックエッグと呼ばれるオーラの卵そのものは、観察される人の高級我が自ら開示してくれる場合にのみ、その許された範囲内において、観察可能なのではないかとわたしは考えている。

創作中は自身のハートから放射される白い光に自ら心地よく浴していることが普通の状態で、創作が生き甲斐となっているのもそれが理由なのかもしれない。

生者のオーラに関していえば、それが見えるとき、肉体から放射される光のように見えていて、肉体はその光が作り出す影のように見える。観察する側の感受性が高まれば高まるほど、その影は意識されなくなっていき、遂には光だけが意識されるようになる。

死者についていえば、死者を生きていたときのような肉体としての姿で見たことはまだない。死者が訪れ、近くに死者がいたときに、輪郭をなぞる点描のようなものとして見えたことがあった以外は、ほとんど何も見えなかった。いわゆる幽霊が見えたことは一度もないのだ。

それなのに、存在は感じられた。そして、たまたま死者の訪問時に死者のオーラが見えたこともあったが、そのとき、おそらくわたしは生者のオーラを見るときと同じように死者のオーラを見ていたのだと思われ、死者の肉体が存在しないせいか、光だけが見えたのであった。

たぶん、わたしの感受性がこの方向へ日常的に高まれば、物体は圧倒的な光の中に縮んだ、おぼろな影のようにしか見えなくなるだろう。オーラは人間にも動物にも植物にも物にすらあるので、留まっている光や行き交っている光のみ意識するようになるに違いない。世界は光の遊技場のように映ずるだろう。

そのとき、わたしはこの世にいながら、もうあの世の視点でしかこの世を見ることができなくなっているわけで、それは地上的には盲目に等しく、この世で生きて行くには不便極まりないに違いない。

以下の断章は、神智学徒だった高齢の女性のオーラを描写したものだ。

……(引用ここから)……頭を、いくらか暗い趣のあるブルーが円形に包み込んでいた。その色合いはわたしには意外で、先生の苦悩ないしは欠点を連想させた。全身から、美麗な白色の光が力強く楕円形に放射されていて、その白い楕円の周りをなぞるように、金色のリボンが、まるで舞踏のステップを踏むように軽やかにとり巻いていた。金色の優美さ、シックさ、朗らかさ。あのような美しい白色も、生き生きとした金色も、肉眼で見える世界には決してない。……(引用ここまで)……

そのときわたしはあの世の視点で他者のオーラを見ていたわけで、そのときのオーラは物質よりも遙かに存在感が勝っており、こういういい方は奇妙だが、光の方が物質よりも物質的に思えるほど重厚感があった。反面、女性の肉体は存在感のない影だった。

圧倒的な白色を、まるで保護するように取り巻いていた金色のリボンは何かの役割を帯びた組織なのだろうが、その組織の性質が作り出す形状は装飾的といってもよいぐらいだった。

 ……(後略)……



マダムN 2021年1月25日 (月) 19:37

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