2022年8月30日火曜日

祐徳院に関すること ①祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました

 祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺ったので、そのことを「マダムNの覚書」にメモした。

メモを「マダムNの神秘主義的エッセー」にまとめ、公開するのに必要な作業として、当ブログに覚書から該当する記事をそのまま転載しておきたい。

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2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました

福岡にお住まいの愛川順一様から伺ったお話を、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただきましたので、メモのまとめとしてのエッセーを公開するのは年明けになるかと思いますが、まだ興奮冷めやらぬ中で、ご報告だけしておきます。

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

このような貴重な内容のメールを頂戴しておきながら、メールフォームの新着表示に気づかず、10日ほども放置していました。

わたしのようなずぶの素人がこのような申し出を受けていいのだろうか、と畏れ多いことに思いました。でも、おそらく祐徳院の第一代庵主[あんじゅ]であった萬子媛とその後継として第二代庵主を勤められた愛川様の御先祖様のお計らいだろうと考え、取る物も取り敢えず、返信しました。

お目にかかってお話を伺いたいと思いましたが、娘の勤務する病院ではコロナ対策としての県外への移動の縛りが解けておらず、決して強制というわけではありませんが、その対策はやんわりと家族にも及びます。

わたしはイベルメクチンで予防しているので、移す心配も移される心配もないと思っていますが、とりあえず、電話でお話を伺うことになりました。コロナ対策の縛りが解けたら、ぜひお会いしたいと思っています。岩本社に祀られている神様の御子孫ですよ、胸が高鳴るではありませんか。

わたしは尼寺としての祐徳院や岩本社に祀られているかたに思いをめぐらせ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に以下のエッセーを書きました。
72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
萬子媛亡き後、尼寺としての祐徳院がどうなったのか、知りたくてたまりませんでした。その答えは、愛川様のお話から半分ほどは得られたように思います。

第二代庵主の出家前の姓は愛川、戒名は「無著庵慧泉宲源」だそうです。※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。

尼寺としての祐徳院が第二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に記述のある蘭契という尼僧かどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われます。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでした。

鹿島市民図書館の学芸員がおっしゃっていたように、その後は男性僧侶の修行の場として続いたのかもしれません。いつまで続いたのでしょう? 廃仏毀釈まででしょうか。

萬子媛は花山院家のお生まれですが、後陽成天皇の第3皇女であった清子内親王(1593-1674)の養女となっています。

清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号しました。清子内親王は28歳で未亡人となっています。萬子媛誕生のとき、大鑑院は32歳でした。大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とし、82歳で亡くなりました。

萬子媛が育った鷹司[たかつかさ]家は、藤原北家嫡流近衛家の分流で公家の五摂家の一つですから、最高クラスの貴族の家柄です。愛川様の御先祖様はその家で萬子媛に仕え、降嫁に伴い鹿島に一緒に来られたのでしょう。萬子媛の結婚は37歳のときです。祐徳院で萬子媛の後継を勤められたのですから、萬子媛より若かったのでしょうね。

そして、京都の愛川家から萬子媛の降嫁に付き添ってきたのは、第二代庵主になられた女性だけではなく、他にもおられたとのことです。

萬子媛は寛永二年(1625年)に生まれ、宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)入定なさっていますが、鹿島史の1700年に、愛川という名が近従として出てくるそうです。このかたは男性で、愛川家は代々医者の家系だそうですから、萬子媛近く仕えたこのかたはお医者様であった可能性が高いように思われます。

亡き母のお友達にキクヨさんというかたがいらして、そのかたのお家――中野家は代々鹿島鍋島家の御殿医でした。
87 祐徳稲荷神社参詣記 (8)鹿島鍋島家の御殿医
数名のお医者様に看取られて、萬子媛は亡くなったのでしょう。
89 祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』
愛川春碩というかたは、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にしたのだそうです。このかたはこの事業を行うために鹿島を離れ、佐賀へ。愛川家が福岡に移住したのは明治維新後のことだそうです。

愛川家と祐徳院とのつながりは、戦後まであったのだとか。

愛川氏、鍋島氏、祐徳院の三者が集い、お祭りが行われていたといいます。これは、祐徳稲荷神社で行われているお祭りとは異なるものであるようです。諸々の事情があって、現在、愛川家は祐徳院との縁が切れた形となってしまい、平成13年にお亡くなりになった愛川太朗氏が祐徳院に関するメモを残されたとか。

そのメモのコピーを送ってくださるそうです。

廃仏毀釈の影響もあるのかもわかりませんが、愛川氏のお話では、昭和24年の祐徳院の火災で、祐徳院に関する貴重な史料の失われた可能性が高いです。田中保善氏の御著書『鹿島市史真実の記録』にも、祐徳稲荷神社の火災は出てきます。

以上、ざっとしたご報告で、間違いがあるかもしれません。年明けに、きちんとしたエッセーにする予定です。

マダムNの覚書、2021年12月24日 (金) 03:30